新婚時の家の話2016年03月02日

結婚して、小さな家を借りた、
隣が大家さん。
古い作りの家を少しリフォームしていた、でも借りた当初は 障子と雨戸でまだ窓ガラスの戸ではなかった。
2年半住む家にガラス戸に変わった。

車はちょっと離れた個人タクシーの駐車場を借りて、電話もなく
個人タクシーの近くに公衆電話ボックスがあった。

南は牛の飼料となるアルファルファを植えた畑があった、
アルファルファと若いときから物知りの夫が教えてくれた。
東は国道、
西は大家さんの果樹畑。
北は生け垣があって親さんの玄関前の庭。

引き戸になっている板戸(ごっつい戸で裏は棧があった)を開くと3畳の畳
そこが玄関。
玄関奥が3畳ぐらいの広さの畳の部屋。 そこからトイレ くみ取り
風呂、台所に直で行けるようになっていた。 私たちはそこにダイニングテーブルを置いて、椅子を2脚置いた。
そこで食事をしていた。

3畳の部屋の右が風呂で、左がメインの部屋。6畳。
仏壇をおくような棚が有り、そこにテレビを置いた。
ピアノもその部屋に置いた。
冬は炬燵を置き、いわゆる居間にした。

6畳部屋の北側、大家さんとの境の部屋を、寝室にした、3畳の部屋。
6畳の部屋に寝ても良かったのに、3畳の部屋を寝室にしていた。
そこには買ってもらった重いタンス、いわゆる婚礼セットという物を棟ぞはまだ結婚する女性は用意していたが 転勤もあるし、母が買わなければならないみたいな意識を持っていたけど、説得してやっとそのチェストだけにしてもらった。 いまでも活用しているタンス

3畳の部屋には1間の押し入れがあり上は布団
下は、少年漫画の週刊誌をため込んでいた。
なぜか夫が少年週刊誌の大人買いをして、週に4誌、買っていた。
冬など二人で炬燵にもぐり込み、ミカンを山ほど積み上げて 漫画に黙々と読みふけっていた。

おそらくすきま風は吹くし、台所も狭くて使いにくかっただろうと思うが、そんな不便は覚えていない。
夫が出張の時などは ふすまと雨戸の時は怖かったんじゃないかなと思うけれど、そんな記憶はなく
教育テレビを一人で見ていたのを思い出す、
教育テレビって面白い、と病みつきになっていた。

父と母が来てくれた。
妹が北海道旅行の帰りに寄って、夫のバイクに乗って説明も聞かないうちに走り出して こけて、足の指を骨折して帰りはスリッパを片方は履き、帰っていった。
夫の弟夫婦と 義妹の弟妹が夏に来て 海で泳いだ。


トイレがくみ取りだったので、しかも下に土管みたいなのがおいてあるようなトイレだったのがいやだったなあ。

良くゴキブリもでた。いも類をかじられていた。

そうそう、3畳の押し入れに猫がいつの間にか入っていて子猫を生んでいた。 私たちが気づいたから 親猫が子猫の首を咥えて一匹ずつ運び出してしまった。
あら、かわいい、って段ボールに布をしいて 子猫を入れた
それをどこからか戻ってきた親猫がやばい、と思って連れ出していた。

3畳の部屋でダーツをしたとき、矢が一つ、外に飛んでいった。
障子を開けてしていたのだろう、
外を探せども、狭い犬走りがあるだけなんだけど 
見つからず 二人で 異次元に飛んでいった 雲隠しだ と
笑いながら納得しておしまい。

夏休みは私の仕事は休みなので 夫はお昼ご飯を食べて 6畳の部屋に横になり また仕事に戻っていった。

一人の時間、何していたのだろう?
何して過ごしてたのだろう?
電話もないし、
パソコンも
本を読んでいた記憶はないし、、、、

まだ料理もうまくなく
夫が
新婚家庭はごちそうがいっぱい並んでいるのだけど、、と
彼はからかったのだろうが、
私は、心の中で、だって大学、卒業、仕事、って料理をする時間がなかったのだもの、と反発した。 そこら辺から今の夫婦の関係は始まっていた
おそらく 腹が立って 嫌な思をしただろうに
その思いをきちんと伝えないという 私の姿勢、

きちんと伝えて話す姿勢さえ、私が持っていたら
二人の間の色々な思いを二人で話す週間さえつけていたら

今みたいな夫婦関係にはなっていなかったのだろう戸、そのスタートを後悔している

夫婦関係は、試行錯誤しながら育て会うべきだったのだけど

まあ、そんな、子供みたいな生活を 古い家で過ごしました
2年半。

2番目の家2016年03月03日

昭和53年4月夫の転勤に伴って島原へ引っ越した。
私は五島で一人で3年から4年を過ごす事ができないと、退職した。
島から陸続きになったと言うことは 嬉しいことだった。

島原は公舎あいてなく 九州建設のアパート 九建アパートだった。
2階建てが横に何間か連なっている作り
下は、台所、風呂 玄関 6畳和室。
2階は3畳の和室が北側、6畳和室が南側にあってベランダがついていた。

下で食事、
ピアノも下の和室においた。
カーテンを買った、前の家は古い家でカーテンなどいらなかったから
無地の白っぽいカーテン。

島原の市街地から 広い2車線の道が少しずつ上り坂になっている、その道ぞいにあって、アパートの前は駐車スペース。 小石ががたがたとしたむきだしの 地面。 玄関は北側だけど、南に面した6畳和室から出入りする事が多かった。 半畳ほどの花壇があり野菜も花も育てたことがなかったけど、何か、植えた。 
花か何か植えていたら、隣の小さい男の子が花をむしったと言う事で母と喧嘩?になった事があったなあ
母が良くきてくれていた。 母がきていたとき、隣の子が花をむしッたのを見て、私に報告したら、私が そんなはずないよと否定した、そのいい方が悪かったのだろう、と思う。母を傷つけた。 花壇に関してはそれぐらいしか思い出がない。

夏のある日、夫が昼ご飯を食べに帰ってきた。
職場からバイクで10分弱の場所だったのでお昼は食べに帰ってきていたのだろうと思う。
そーめんを食べていたら 網戸の生まれたばかりのような子猫がみゃあみゃあ泣きながらよじ登ってきた
小さい子猫が力を振り絞って網戸を登ってきた姿をみて 私たちはその子猫を飼うことにした。
獣医さんに連れていき、しばらくは何も食べなかった。
サンマの缶詰を食べさせてみたら、驚く程、食いつき、それから子猫はみるみる元気になった。
長崎の夫の実家に帰るときも連れていった。
五島で読んでいた少年漫画のまことちゃん、に出てくる猫メチャ の名前をもらって、メチャと、名付けた。
当時は、猫は外も家も自由に行き来するのが当たり前で、
メチャも、昼はあちこち外出していた。
でもメチャ~と呼ぶと どこからともなく帰ってきた。
汚れていただろうに 部屋の中にも平気であげていた。
長女が生まれて メチャは私の実家に里子にだした。
メチャは、炬燵布団に粗相したり、家の中の有りとあらゆる所に粗相し始めた。環境が変化したストレスだったのだろう、
実家に妹の子が誕生したので メチャは小屋の中が寝床になった。
娘の子が幼稚園ぐらいになったときメチャはその生涯を終えた。

島原で、9月から3月まで産休補助教員をした。
たまたま夫の上司の妹さんの代わりだった。
11月頃懐妊したが しばらくは職場に報告せずにいた
産休補助教員が妊娠するって、ちょっとしゃれにならないかな、とおもったから

4月から仕事を辞め、子供の誕生を待った。
8月、里帰りして元気な女の子を産んだ。
その2年前、夫を亡くした母に 元気がみなぎってきた
一生懸命初孫を世話し、可愛がってくれた。
2ヶ月ほど実家にいて やっと夫の待つ九建アパートに帰った。でもしばらくは母がいてくれた。
甘えることが母にとって良いことのような気がしたけれど 自分も不安だったから

お姑さんの日記2016年03月06日

夫のお母さん、 去年13回忌を済ませました。
夫も、勿論一緒に。

お姑さんは明るく 責任感が強く 良くできた人でした。

お姑さんの日記を 夫の実家から持ってきていた。
退職後は夫と写真や本などを整理しながら一緒に読もうと、思っていた。
今日、一人で読んだ。

5行ほどの短い、3年日記。 出来事を綴っていて 感情的な事はあまり書いていない。
呆け始めているのではないかと いうおそれの文章が晩年にはみられて 徐々に空欄が増えていった。
離婚して帰ってきた娘(義姉)の心配
年金での生活のお金の不安
夫の弟の娘を下宿させた時の心配
それぐらいが思いを書いた事で
あとはその日何をしたかと記録が主な日記で
時々のニュースからだったり、新聞の切り抜きだったり
そんな時の情勢もわかるような書き込みもあった。20年以上は書いていたみたい

日記なんて3日坊主の私は いつも感心していた
泊まりに行った時寝る間に 机に向かって書いている光景を目にした

私や私たちの記述もあった。
お小遣いをもらって、感謝とか、ごちそうしてもらって感謝とか 
そんな風に 感謝の言葉をいっぱい書いてもらっていた。


お姑さんの心配事を聞いてあげればよかった。
今、思うことであって 当時は子育てや自分の事で忙しかったから
振り向く余裕がなかった でも 申し訳ないと、今思う。
お姑さんの写真に向かって、ごめんね、と言う、 やさしい目で 
あなたには良くしてもらって、ありがとう、 って声が聞こえてきそうだ。
そんな人だった、
夫といっしょにお母さんの日記を読み 自分たちの時代を振り返りたかった